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大江戸地図作成見聞

大江戸地図作成の中で、神社周辺地域への参詣者が、行き交う経路が都市開発への大きな影響力として捉え考えられるといった点に注目してみると、人々の暮らしの中での賑わいが垣間見られるようです。

大江戸地図作成の中で、「両国」の回向院のはじまりが、江戸の街を作り上げたという説があるようなので、ご紹介させて頂きたいと思います。1657年(明暦3年)に江戸の街に大火事が発生した明暦の大火では、使者は10万人余りであったと言われています。江戸最大の大火事のひとつと言われ、街の大部分を焼き払ったそうなのです。この災害をキッカケに、幕府は街づくりの一環として、防火対策に乗り込むことになったようです。

「火除け地」「広小路」は、防火を想定して都市計画の一環として開発が行われたようです。この大火事で災害に遭った人々の引き取り手のない亡骸を埋葬する為の当時の埋蔵場所が、「両国」の「回向院」のはじまりであり、共同墓地として、また、被災した人々の参拝の場として、人々を慰め、人々の苦悩を鎮魂する「回向院」が生まれたと言われています。

この明暦の大火によって架橋された「両国橋」には、火災によって逃げ遅れた人々の事実を受け止め、後に老中たちが防災・防火の意の元、架橋された経緯があります。このような形で、江戸の街づくりが行われ、人々を慰め、人々の苦悩を鎮魂する「回向院」への参拝者たちが、周辺地域を行き交う事で、憩いの場が広がり賑わいをみせたようです。人が自然に集まった場所が、「盛り場」ではありますが、人が集まるには理由があり、その必然性をもって都市が生まれているようであります。

皆さんは、このような、都市開発への考え方をどう捉えますか?これからの日本の街づくりを考える上で、重要な歴史的事実になるのではないかと思われます。